子どもを見るということは、その背景にある社会を見ることだった
学童保育の仕事をしていて、何度も思ったことがある。
「子どもを見ているつもりだったのに、いつの間にか、その子を取り巻く社会全体を見ていた。」
ということ。
学童保育士の仕事は、もちろん子どもたちと遊ぶことだけではない。
学業のサポートや、成長を見守ること、子ども同士の関係を調整することももちろん仕事のひとつだ。
でも、特に私が働いていた環境では、それだけでは終わらなかった。
貧困。
難民としてドイツに来た家庭。
片親家庭。
複雑な家庭環境。
そういった背景を持つ子どもたちは、家庭や社会が抱える問題を、自分自身の小さな体で背負っていることがある。
そして、その影響は学童の現場にはっきりと表れる。
強い怒りとして出る子。
集中力が続かない子。
他の子どもとうまく関われない形で出る子。
大人を信用できない様子を見せる子。
「どうしてこの子はこういう行動をするんだろう」
そう考えていくと、目の前の行動だけではなく、その奥にある家庭環境や社会的な背景に向き合わなければならなくなる。
時にはKindeswohlgefährdung(8a案件)に関わることもあった。
家庭内の暴力の可能性。
子どもの安全に関わる問題。
学童だけでは対応できないケース。
そういう時には、Schulsozialarbeiter(学校ソーシャルワーカー)と何度も話し合った。
どこにつなげるべきなのか。
今できる支援は何なのか。
Jugendamtに相談するべきなのか。
そして、実際にJugendamtの力を借りる必要がある場合は、保護者とjugendamtの間に立つことになり、精神的にかなり厳しい仕事となった。
一方で、Jugendamtだけが選択肢ではない。
家庭が利用できる相談機関や支援先の情報を伝えることもあった。
なぜなら、問題を抱えている家庭ほど、「どこに助けを求めればいいのか」を知らないこともあるからだ。
こうした経験を通して感じたのは、学童保育という場所は、ただ子どもを預かる場所ではないということだった。
子どもたちは、家庭、地域、社会の影響をすべて持って学童にやって来る。
そして現場の職員は、そのすべての入り口に立つことになる。
だから、この仕事は難しい。
子ども一人を見るということは、その子どもの後ろにある世界を見ることでもあるからだ。
何人の同僚が、こうして無力さの前に立ち尽くし、辞めていっただろうか。
一番つらいのは、問題がすぐに解決しないこと
学童保育の仕事で一番つらいのは、忙しさそのものではない。
『問題が、すぐには解決しないこと』だと思う。
例えば、ある子どもに強い問題行動があるとする。
もちろん、最初から「この子には問題がある」と決めつけるわけではない。
なぜその行動が出ているのか。
何がその子を苦しめているのか。
まずは子どもの様子を観察する。
担任の先生と話し合う。
Schulsozialarbeiter(学校ソーシャルワーカー)と意見を交換する。
上司に相談する。
記録を取り続ける。
必要な申請書類を書く。
そして、ようやく専門家につながる。
専門家が学校に来て、子どもの様子を観察する。
そこから、さらに必要な支援につなげていく。
でも、そこからがまた長い。
特別支援の申請。
専門機関とのやり取り。
保護者との話し合い。
そして、場合によっては保護者との意見の違いに向き合うことになる。
すべてが順調に進むわけではない。
専門家によっては、「この子どもには大きな問題はない」と判断され、その先の支援につながらないこともある。
実際、私のクラスでその判断が出た時、担任の先生は本当に絶望していた。
「じゃあ、この状況を毎日受け止めている現場や他の子どもたちはどうすればいいの?」
ここまで進むだけで、半年以上かかることも珍しくない。
その間も、子どもは毎日学童に来る。
現場の職員は、その子どもと毎日向き合う。
制度が動くのを待つ。
専門家の判断を待つ。
申請結果を待つ。
問題は毎日ボヤのようにそこら中でたち、子どもたちはもう待てない状態。
ドイツの支援制度は、必要な人に必要な支援を届けるために、きちんとした手続きが必要になっている。
それは大切なことだと思う。
でも、その手続きが進むまでの時間。
その間に子どもと向き合い続ける人の負担は、なかなか見えにくい。
現場にいる職員が、少しずつ消耗していく。
だから、この仕事の本当の大変さは、
「仕事量が多いこと」
だけではない。
頑張っても、すぐには状況が変わらないこと。
その現実の中で、毎日子どもの前に立ち続けること。
それが、精神的に一番削られる部分なのだと思う。
ベテランは、諦めているわけじゃない
主力教諭として働き始め、この仕事の本質や大変さがようやく見えてきた頃、私はベテランの同僚たちを見て不思議に思っていた。
「どうして、こんな状況でも落ち着いていられるんだろう。」
「どうして何年もこの仕事を続けられるんだろう。」
正直、最初は「よっぽどタフなんだな。羨ましいな。」と思っていた。
でも、一緒に働くうちに分かってきた。
彼らは、何も感じていないわけではない。
子どもたちのことを考えていないわけでもない。
むしろ、長くこの仕事を続けてきたからこそ、分かっているのだと思う。
自分ができること。
自分にはできないこと。
今すぐ変えられること。
時間をかけなければ変わらないこと。
その線引きをする力を持っている。
そして、やはり精神的にタフな人が多い。
嫌なことがあっても切り替える。
全部を自分の責任だと思わない。
必要以上に抱え込まない。
それは、この仕事を続けるために身につけた力なのだと思う。
私の担当クラスがあまりにも大変だった時、ある同僚が私に言ってくれた。
「本当なら、カピバラがこんな荷物を背負うはずじゃなかった。」
その言葉を聞いた時、少し救われた。
「自分の能力が足りないから、毎日こんなに苦しいんだ」
ずっとそう思っていたから。
でも違った。
もちろん、自分に足りない部分はあった。
でも、それだけではなかった。
単純に、一人の新人が背負うには大きすぎる状況だったのだ。
完璧じゃなくてもいい
私は現在、週28時間(70%勤務)で働いている。
でも、正直に言うと、楽だとは感じない。
なぜなら、その勤務時間のほとんどが子どもたちと直接関わる時間だから。
事務仕事や考える時間は、ほぼないに等しい。けどやらないといけないので、子どもたちの面倒を見ながら同時にやっている感じだ。
そんなんだから、体感や仕事後の疲労感としては、70%ではなく150%働いているように感じる。
だから最近、少しずつ考え方が変わってきた。
全部を背負おうとしなくていい。
すべての問題を、自分一人の力で解決することはできない。
すべての子どもを、自分一人で救うこともできない。
以前、ソーシャルワーカーの同僚が大学で学んだ内容について話してくれた。
「大学では、<燃え尽き症候群を予防する>というテーマの授業があったよ。」
最初は笑った。
でも、すぐに思った。
「いや、これ笑えないやつだ。」
この仕事をしていて、精神的に限界になった人を何人も見てきた。
私自身も、何度もギリギリまでいった。
でも今なら、その授業がある理由がよく分かる。
この社会福祉分野の仕事は、体力より先に心が削られていく仕事だから。
普通のドイツ人でも厳しい仕事なのに、そこに追い打ちをかける用に私は
外国人だから。
新人だから。
ちゃんとやらなきゃ。
子どもたちのために、もっとできるはず。
そんな思いで走り続けてきた。
でも今は少しだけ分かる。
自分を守ることは、子どもたちを大切にしないことではない。
長く子どもたちの前に立ち続けるために、自分を守ることも、この仕事の一部なのだ。
完璧な先生になることよりも。
壊れずに、長く続けられる先生でいること。
それが、子どもたちにとっても、自分にとっても、一番大切なことなのだと思う。

これは、担任の先生からもらった贈り物。



コメント
はじめまして。北ドイツでスクールソーシャルワーカーをしています。以前は学童のクラブ活動をコーディネートする仕事をしていました。同職の日本人に今まで出会ったことがなかったので、このブログに出会えて感激です!
ホタルさん、コメントありがとうございます。schulsozialarbbeiter/inをされてるんですね!小学校でしょうか。それならまさに同職!同志!(笑)もしブログか何かで発信されてたらぜひ教えてください。